津軽塗
津軽塗の歴史は300年以上にわたります。
その基礎は、江戸時代中期、弘前藩第四代藩主津軽信政(1646~1710)の治世に成立した、というのが一般的な説となっております。藩きっての名君として名高い信政は、産業を育成するために、諸国から多くの職人・技術者を招き入れました。
その中の一人である、塗師の池田源兵衛は信政の命により、新しい技法の習得のために江戸に赴くことになります。江戸で源兵衛は、青海太郎左右衛門という職人に師事しました。源兵衛は志半ばにして、江戸で病にかかり生を終えますが、息子の源太郎がその遺志を継ぎ、青海太郎左右衛門の下で修業に励みます。
やがて太郎左右衛門も死に、源太郎は師の姓と父の名を受け継いで、青海源兵衛と名乗ることになります。
後に帰藩した源兵衛は、習得した技術に独特の創意を加え、津軽の地で新たな漆器を生み出します。これが津軽塗の基礎となったといわれています。その後、様々な職人が工夫を重ねて次々と新たな塗を生み出していきました。江戸時代を通じ、こうして生産された塗物は、幕府や朝廷・他の大名家や公家への贈答品として、弘前藩に欠かせない重要な工芸品となりました。
明治維新後、これらの塗を総称し、津軽地方の伝統工芸品として「津軽塗」の名が生まれたとされています。明治六年(1873年)には、ウィーン万国博覧会に青森県が「津軽塗」という名称で出品していることが明らかになっています。
その後、弘前に旧日本陸軍第八師団司令部が置かれ、軍都として発展していくのにつれ、津軽塗も大衆化が進み、産業として隆盛を極めます。
太平洋戦争の勃発により、産業としての津軽塗は一時中断しますが、伝統は失われることなく継がれていきます。そして戦後、高度成長時代に合わせて再び活況を取り戻し、津軽塗は現在に至っているのです。